数億年をかけて人類やその他の動物が生活出来るように基盤を整えてくれた植物たちは、更に人類を生かし、人間を癒し、いつも人々と共にあって守ってくれてきました。
それなのに、人間の都合や飽くなき欲望のために伐り開き、利用するだけで、感謝するどころか有って当たり前、ややもすれば邪魔者扱いのような状態です。
それでも、文句一つ言わず許してくれているのは、「許すとは、許し得ないものを無条件で許すことだ」と言った哲学者と同じレベルの知能を植物は持っているのか?
解りません。
先日の読売新聞に掲載されていた、コラム欄の記事をそのまま載せます。
許しとは、許しえないものを無条件で許すことだ、と論じた哲学者ジャック・デリダを思い出した。20年前に起きた松本サリン事件で妻を失い、犯人視の被害も受けた河野義行さんが長野支局員の取材に応じ、オウム真理教の死刑囚に会った感想を語っている。
「普通の人よりちょっと真面目かなという印象。彼らには[組織の正義]があったのでしょう。でも、自分はそうゆうことをやらないといいきれるか」
妻を奪った教団を憎み続けてもおかしくない河野さんがたどりついたその思いに、父親を水俣病で亡くした同年代の漁師、緒方正人さんの言葉が重なる。
「チッソが毒を流しつづけて、儲かって儲かって仕方がない時代に、自分がチッソの一労働者あるいは幹部であったとしたらと考えてみると、同じことをしなかったとは言い切れない[チッソは私であった]製品があふれ、システムで動くこの社会・時代の中で、自分たちは[もう一人のチッソ]だと」
後略。
まさに森林が人間を許すように、我々には謎である。
とある話し合いで、産廃、一廃の話合いがありました。
それも植木の剪定枝や草の件に関してです。
私は話合いの最中、とても疑問を感じました。
果たして、このような緑はゴミとして扱うべきか?
ゴミを減らしたい、資源化したいと言っている私たちがこれを「ゴミ」と呼んでしまっていてよいのだろうか?
段ボールやペットボトルは資源(リサイクル)の概念がある。
それは生活に密着しているからだと言われますが、二酸化炭素を吸収し我々に酸素を与えてくれている
草木、樹木は生活に密着していないのか?疑問だらけです。
私達は「資源」としてこの緑たちを新たな命につなげていかなくてはならないと思います。
ゴミとは、所有者が放棄したのも、ゴミと見なしたのもが「ゴミ」です。
私が長年使っているボロボロの道具もはたから見ればゴミです。
ただし私からすれば大事な道具。ゴミではないのです。